かあちゃん
私のような活動範囲が狭い人間にもいくつかの顔がある。
一つは教師、もう一つは研究者、そして三つ目がかあちゃん。
自宅を一歩外に出るとかあちゃんは封印して独身のような顔をしているつもりだが、帰宅するとたちまちかあちゃんなのだ。
先週土曜日、「どうも骨折したみたい、タクシーで帰る」と息子から電話がかかってきた。
その時は大ごととは思わず、本人もヘラヘラしていたので、就寝。
翌日は日曜日だったので、病院には行かず、月曜日の朝、紹介状を持ち病院へ。
そこから急展開で、結局、手術と入院二ヶ月、またボルトを取り出す手術が今後2回必要との宣告を受けた。
本人よりもこちらが落ち込み、ヘナヘナと崩れ落ちるような気持ち。
病院との行き来や連絡や宅配の受け取りなど1日が入院にともなう大小様々なことで埋め尽くされる。
結局、今週は何も手につかず、最低限の義務的仕事をこなすことで精一杯。
頼りにならないかあちゃんの代わりに、娘がテキパキとパソコンを病院に運んだり、どういう巡り合わせか息子と同時期に肋骨を折ってしまった父親(単身赴任中)に届け物の手配をしてくれている。
かあちゃんは肝心な時にほとんど役に立たないことが立証されてしまった。
服部良一とシンフォニック・ジャズ
服部良一は三度、上海に渡っています。
一度目は1938年、二度目は1941年、三度目が1944年から戦後の引き揚げまで。
NHKの朝の連続ドラマで1945年6月の「夜来香ラプソディー」の李香蘭リサイタルのシーンが放映されましたが、このリサイタル、実は、工部局オーケストラというオール欧米人の質の高いオーケストラが演奏に加わっていました。そもそも「ラプソディー」はガーシュウィンの<ラプソディー・イン・ブルー>からの発想でした。
工部局オーケストラ(上海交響楽団)は普段はショスタコーヴィチやストラヴィンスキーを演奏しているようなオーケストラですから、ポピュラー音楽の伴奏というのは、やはり戦時の日本軍占領下という特殊な状況のもとでの出来事だったのでしょう。
服部良一はエマニュエル・メッテルの弟子ですから、オーケストラに亡命ロシア人が多く、メッテルのハルビン時代の楽団員もいたことは、彼にとってとても心強かったはずです。メッテル仕込みのオーケストラ編曲力も楽団員の信頼を得ることに繋がったでしょう。
そして、重要なことは服部良一はオーケストラを使った「シンフォニック・ジャズ」、ガーシュウィンのような作品を作曲し、自作自演したかった、その夢をこのリサイタルで、<夜来香ラプソディー>でかなえたということです。戦時の日本ではいろいろな意味で実現不可能、上海だから実現できたのです。
彼は二度目の上海でガーシュウィンの<ラプソディー・イン・ブルー>をマリオ・パーチ指揮、工部局オーケストラ、ピアニスト、ジンゲル(作曲家でもあった実力派のロシア人ピアニスト)で聴いています。その印象的な体験を、1950年になって<日本のアメリカ人>(パリのアメリカ人を意識)というシンフォニック・ジャズの解説に記しています。
「ガーシュインの「ラプソディー・イン・ブルー」はいろいろな人のを聴いているが、僕自身では残念なことに一度も指揮をしたことがないのである。(略)戦時中は上海交響楽団でマリオ・パッチの指揮で聴いた。(略)日本でも最近ようやくジャズが盛になってきたが、専らダンス・ホールやキャバレーのみの、享楽的なもののみで舞台演奏や音楽会用には極めて稀に行われる。今回の指揮に当たって、私は出来るだけジャズ自身の持っている迫力を生かし、又グロッフェ独特のオーケストレーションの色彩を描写するために研究してみたいと思っている。」
(グロッフェとは「ラプソディー・イン・ブルー」のオーケストラ編曲者)
「今度はバレエの間奏楽みたいに扱われているが、これから、こういった形式のものをどんどん書いて、時々、まとまったコンサートをひらきたいと思っている」(1950年 グランド・バレエ<アメリカ>大阪朝日会館公演 解説より)
とある。
1950年、ようやく大阪で<ラプソディー・イン・ブルー>(関西交響楽団)、自作のシンフォニック・ジャズを指揮し、同じステージにバレエの小牧正英、朝比奈隆がいました。彼ら三人はそれぞれ戦時上海を体験しています。
服部良一の上海とは、「オーケストラを用いたシンフォニック・ジャズ」という彼の夢の実現の場であった、と感じます。
戦時上海の劇場活動は中国語ではありますが、この本が一押し!
2024年、ただ祈るだけ
大晦日に実家で寝込んでしまい、そのまま元旦へ。
午後4時過ぎにグラグラ揺れ始め、長く長く揺れていました。
震度は2くらいだったかな。
阪神大震災の時をちらっと思い出しましたが、もちろんあの時は実家が倒壊すると思った揺れだったので、比較にはなりません。
その後、次々にニュースが入り、同じ映像がテレビで繰り返されるので、これは見ていると東北の時のように不安発作を起こすと思い、慌てて年末に録画していた第九に切り替えました。
実家の録画リストは短歌か料理番組なので、この第九(大阪音大卒で母校の教員でもある中村恵里さんがソプラノ!)は撮っててよかった。
そして2日、羽田空港からの信じられない映像が飛び込み、また新千歳空港から羽田とは、我が家人が頻繁に利用するルートです。
こちらもニュースを見続けると不眠になると思い、寝室でバッハばかり聴いていました。
元旦、二日と未曾有の天災、事故が続き、日本列島が喪に服すスタート。
誰が震源地に住んでいても不思議ではないし、誰があの飛行機に乗っていても不思議ではない。実際、後で知人が乗っていたことを知りましたし、教え子はJALのCAとして勤務しています。
私自身が今日もこうして生きていることの方が奇跡、謙虚に今年一年を過ごさなければ、と心の底から思いつつ。
本年もよろしくお願いいたします。
2024年1月3日
近所の大覚寺へお墓参り。
寧波の友人、我が家に一泊旅行
帰省シーズン突入です。
私は昨日、瀬戸内海沿いの実家に帰省しました。
今回は寧波大学から一年間、研究員として来日している王さんと一緒に帰省するという珍しい帰り方。
まず駅に到着し、向かったのは築140年の旧永尾金物店です。今は屋号の鍛冶六として棚貸し書店(シェア型書店)と角打として再生。
私の書棚もありますので、拙著を二冊補充し、鍛治六さんの店内を見て回り、その後、佐賀の日本酒を購入し、実家に到着。
普段、一人暮らしをしている母は年2回ほどしか戻ってこない私が帰省すると、それこそたまっていた話をとめどなく話し続けるのですが、今回は王さんの日本語会話にも役に立つ、とか勝手な理由をつけて母と彼女のほんわかした会話を横で聞きながらうたた寝するというのんびりな夕食後の団欒。
この夕食が80代とは到底思えない皿数でした。新鮮な魚介類とご近所農家の野菜、美味しいので完食。
翌朝はゆっくり起きてきた王さんと自転車で龍門寺へ。静かな境内を歩き、家島をのぞむ瀬戸内海まで自転車で飛ばす飛ばす。
キラキラ光る海を見て、大満足の二人でした(彼女が満足だったかどうかは不明、日本の田舎をどう感じたのか、怖くて聞けなかった)。
いい年の瀬〜!
主のかくも長き不在
主とか主人ということばは使わない主義ですが、我が家から父とか夫と呼ばれるお方が去ってから八年がすぎました。
あまりにさっと軽やかに消え去ったので、ぼんやりしている私は数ヶ月、実感がなかったくらいです。そもそもそんなに存在感があるタイプではなく、私が眠った後で台所や風呂掃除をしたり、帰宅時間もとても遅かったので、完全にすれ違い生活だったのです。
八年も過ぎると、向こうは単身赴任がイタにつき、こちらはというと私と娘の、掃除嫌い、家事を怠ける、けれども美味しいものは食べたい、という似た者同士の生活がしっくりと馴染んでいます。
八年という歳月は、まず寝室が書斎化し、リビングが本置き場になり、最後は廊下や一間きりの和室までもが物置化。
じゃあ、たいそう仕事がはかどっただろうと思いきや、一人でいると結局誰の目も気にせず、好きな本を読みふけったり録りためた番組をみるので自堕落この上ない。
もし、突然、主がこの家に戻ってきたら?と想像してみました。残念なことに何も具体的にイメージできません。
例えば、車庫にクルマが召喚され、私は早朝の電車ラッシュから解放される、水回りがピカピカになり、大量に断捨離が敢行される、和服置き場になった彼のベッドが元の状態になる、そして週末は、えっと週末って以前は何してたっけ。全く思い出せない!
いずれ誰しも独居老人になるのだから、今の生活は近未来の前倒しでしょうね。
えーい、今日は大掃除だ、その前に年賀状だ、その前に急ぎの仕事だ!
年賀状に選んだ今年のベストショット。オホーツクのシブノツナイ遺跡(アイヌの集落跡)にて8月、いい風がピューッと吹いていました。
よく働いた、と自分で自分を褒めるしかない
昨日、郵便局に出かけたところ、年賀状のサンプルが貼り出してあり、「そうか、もう12月も後半なんだ!」と気づいたような状況です。
12月に入ってから、ぐずぐずと風邪をこじらせ、よくなっては、3コマ連続授業プラス会議の日があって、風邪をぶり返すという二週間でした。
今週、それでもなんとか8コマの授業と会議を終えてクタクタになっているところに、家人から「日本時間18時から国際会議での講演の中継があるから聞いてね!」とフランス・ストラスブールから連絡が。
そんなこと言われてもこちらはコテコテに疲れているし、娘の夕飯の準備があるのに、と思いつつも、ストラスブールからのウェビナーに接続。
予想に反して、会場はNHKニュースに出てくるような大仰な会議場で、フランス語と英語が飛び交う中、家人は1時間も英語でプレゼンをし、質疑がまたすこぶる多い。ストラスブールは仏独の国境地帯にあり、ナショナル・アイデンティティや複数の母語を持つ環境が、家人のプレゼンと合致したようで、延々と質疑が続く。
食事の支度が、と焦りつつも、「あれ?いつの間にこんなに英語で自然に喋れるようになっているの?」と新たな発見も(何歳になっても人は成長する!)。
とりあえず、2時間近くウェビナーを視聴し、夕飯を作り、ベッドに倒れ込んだという1日でした。
冒頭の年賀状ですが、今年一年を振り返ると、5回は北海道に行ったこと、滞在時間はゆうに一ヶ月を超えたこと、そして懸命に原稿を書こうとしたこと(書けていない)、が2023年のトピックでしょうか。情けない‥。