ようこそ井口淳子研究室へ(NEW)

民族音楽学、音楽学研究者。近刊は「送別の餃子:中国都市と農村肖像画」jiguchi@daion.ac.jp

服部良一とシンフォニック・ジャズ

服部良一は三度、上海に渡っています。

一度目は1938年、二度目は1941年、三度目が1944年から戦後の引き揚げまで。

NHKの朝の連続ドラマで1945年6月の「夜来香ラプソディー」の李香蘭リサイタルのシーンが放映されましたが、このリサイタル、実は、工部局オーケストラというオール欧米人の質の高いオーケストラが演奏に加わっていました。そもそも「ラプソディー」はガーシュウィンの<ラプソディー・イン・ブルー>からの発想でした。

工部局オーケストラ(上海交響楽団)は普段はショスタコーヴィチストラヴィンスキーを演奏しているようなオーケストラですから、ポピュラー音楽の伴奏というのは、やはり戦時の日本軍占領下という特殊な状況のもとでの出来事だったのでしょう。

服部良一はエマニュエル・メッテルの弟子ですから、オーケストラに亡命ロシア人が多く、メッテルのハルビン時代の楽団員もいたことは、彼にとってとても心強かったはずです。メッテル仕込みのオーケストラ編曲力も楽団員の信頼を得ることに繋がったでしょう。

そして、重要なことは服部良一はオーケストラを使った「シンフォニック・ジャズ」、ガーシュウィンのような作品を作曲し、自作自演したかった、その夢をこのリサイタルで、<夜来香ラプソディー>でかなえたということです。戦時の日本ではいろいろな意味で実現不可能、上海だから実現できたのです。

彼は二度目の上海でガーシュウィンの<ラプソディー・イン・ブルー>をマリオ・パーチ指揮、工部局オーケストラ、ピアニスト、ジンゲル(作曲家でもあった実力派のロシア人ピアニスト)で聴いています。その印象的な体験を、1950年になって<日本のアメリカ人>(パリのアメリカ人を意識)というシンフォニック・ジャズの解説に記しています。

ガーシュインの「ラプソディー・イン・ブルー」はいろいろな人のを聴いているが、僕自身では残念なことに一度も指揮をしたことがないのである。(略)戦時中は上海交響楽団でマリオ・パッチの指揮で聴いた。(略)日本でも最近ようやくジャズが盛になってきたが、専らダンス・ホールやキャバレーのみの、享楽的なもののみで舞台演奏や音楽会用には極めて稀に行われる。今回の指揮に当たって、私は出来るだけジャズ自身の持っている迫力を生かし、又グロッフェ独特のオーケストレーションの色彩を描写するために研究してみたいと思っている。」

(グロッフェとは「ラプソディー・イン・ブルー」のオーケストラ編曲者)

「今度はバレエの間奏楽みたいに扱われているが、これから、こういった形式のものをどんどん書いて、時々、まとまったコンサートをひらきたいと思っている」(1950年 グランド・バレエ<アメリカ>大阪朝日会館公演 解説より)

とある。

1950年、ようやく大阪で<ラプソディー・イン・ブルー>(関西交響楽団)、自作のシンフォニック・ジャズを指揮し、同じステージにバレエの小牧正英、朝比奈隆がいました。彼ら三人はそれぞれ戦時上海を体験しています。

服部良一の上海とは、「オーケストラを用いたシンフォニック・ジャズ」という彼の夢の実現の場であった、と感じます。

 

戦時上海の劇場活動は中国語ではありますが、この本が一押し!