安田登さん
本当の意味での自由人。
安田登さんを初めて認識したのはいつのことだったか。
「送別の餃子」を京都の小さな出版社から刊行した際、確か、初刷は2000部以下だったと記憶しているけれども、なかなか売れないだろうなあと灯光舎の社主、面高悠さんと話していた。その当時もすでに日中関係は冷え込み、嫌中本が世の中に溢れていた。
発売後、しばらくして、まず安田登さんがTwitterでこの本を周囲の仲間が読んでいる、書評会を開きたいほどだといった意味のことをつぶやいてくださった。
そこから東方書店に買いに行ってくださる方が増えていったようで、じわじわと広がっていき、しばらくすると増刷が決まった。その際も、安田さんは残部希少という社主のつぶやきに、それは残念過ぎるといったコメントを出してくださった。
そうそう、その前から玉川奈々福さんたちと中国河南省の奥にある農村の語り物大規模フェス(馬街十三書会)に出かけられたことを知っていたので、能役者にして中国古典や現代中国に精通している方だということはわかっていた。
その後、安田さんとともに現代能を上演されている奥津健太郎さんとも知り合い、多田道雄の<望恨歌>を国立能楽堂で拝見し、そのレビューも書かせていただいた。
とにかく、多忙を極める安田さんなので、一度お目にかかりたいものだと思っていたけれどもその機会は舞台以外ではなかなか訪れなかった。
ところが、私が住んでいる街にある大学に非常勤で週に一度、東京から来られていることを知り、駅前で夕食をご一緒することになった。
その日は緊張のあまり、約束の時間まで落ち着かなかった。
駅前の信号で待っていると、安田さんが颯爽とあらわれた。いつも能の装束や1「00分de名著」の和服姿でしか姿を拝見していないので、とてもカッコいい黒のコートを羽織った安田さんに意表を突かれた。
でも、会うなり「歯が抜けてしまって、噛めないので柔らかい食べ物がいい」とおっしゃった。食べることはそっちのけで、とにかく、縦横無尽にお話しされ、後半は近未来のメタバースやドミニク・チェン氏の話題、つまり未来の話ばかりだった。
別れ際に、「今度は私がご馳走します」とおっしゃったが、その非常勤も退かれ、そういう機会は訪れなかった。
けれども、安田さんが京都や大阪で公演される際には駆けつける、案内をいただかなくとも、とにかく、安田さんをその公演を目撃したいという気持ちがずっと続いている。
最近では、永観堂での野外創作劇、今年の夏には大阪中之島での公演「黄泉平坂 排斥と遊戯」(ヤナギミワ作)を拝見した。そういう時も、特に楽屋を訪ねたりご挨拶することはない。安田さんはとにかく人との付き合い方も淡白というか爽やかにクールなのだ。
先週、肝臓がんのステージ4を公表された安田さん。
以前から体調不良を心配していたが、とうとう診断が下った。
ところが、その診断結果を聞いて「ワクワクする」と書かれていた。未体験ゾーンに入っていく自分にワクワクすると。
医師は本当にワクワクして微笑んでいる患者を見て怪訝な表情をされたそう。
普通なら余命宣告を受けて嬉しそうにする人はいないので、安田さんはさすがだなと思う。
診断結果を受けて安田さんは高額医療を負担できる蓄財がないので、とご友人たちが喜捨を募られた。
そしてわずか3日で400人以上から一千万円以上の喜捨が集まった。
私はこの数字に驚かない。
なぜなら、安田さんの公演、講演、ご著書から多くを学び、多くを得た人が喜捨をされたのはまさに喜んで捨てる、喜んでお礼をされたからだと思うからだ。
私も喜んでお礼をさせていただいた。
できることなら治療期間が伸びたので再度の喜捨を、ということになってほしい。何度でも喜捨したい。
社会が安田さんを必要としている。
どんな方向に風が吹いても、安田さんは風見鶏とは真逆の行動をとる。
歯に衣を着せぬ発言に自分の思いを代弁していただいたと感じている人も多いだろう。
1980年代の中国貧乏旅行は安田さんに「中国とは」という揺るぎない認識を与えた。
古典に通暁し、生きた中国を知る、双方を兼ね備えた人はなかなかいない。
私にとって灯台のような存在、暴風雨のときもすっくと立ち続ける灯台なのだ、安田さんは。















