3月16日、東京、恵比寿の日仏会館でようやく科研グループの初顔合わせが実現しました。部分的にはお会いしているのですが、6名全員が揃うのはなんと、初めて!
科研が始まったのがコロナの2020年だったので、その後はオンライン会議やオンラインでの国際シンポジウムなど、全てが非対面でした。
午後、日仏会館に集合し、上海から戦後、船で送られてきた書籍群を拝見しました。番号は上海の仏語新聞に掲載されていたそのままの番号です。表紙を開くと上海の蔵書印がまるで昨日押されたように鮮やかに残っています。
書庫の後は所長のベルナール・トマン氏と面談し、今後の日仏会館のイベントに私たちが何かプログラムを提供できないか、意見交換をしました。気さくで流暢な日本語を操る所長との記念撮影も。
そして夜は「上海フランス租界への招待」執筆者の皆さんも加わり夜景を楽しみながらのディナーとなったのですが、私は体調がすぐれず、やむなく欠席。
早めに床についたおかげで二日目は体調も回復し、旧知の編集者さんとの会食や、長年、行きたいと願っていたアウセイ・ストロークのお墓にお参りしてきました。
ストロークのお墓は横浜の根岸外国人墓地にあります。この墓地は訪れる人も少ない寂しい場所で、案内板には「イタリア人ストローク、没年1967年」などと間違った表記がされているのですが、きちんと横浜市が管理しています。
墓石には表に生年没年、ラトビア生まれ、東京で没と英語で刻まれています。この生年は一年間違っていて正しくは1875年です。そして墓石の裏には日本語で彼の功績が刻まれているのですが、どうも座りの悪い文章なのです。しかもこのお墓は彼が亡くなってから5年も経ってから作られているのです。朝日新聞社とあるので、墓石を建てたのは新聞社でしょうが、どこか腑に落ちない墓碑になっていました。
帰宅して、早速、リガに住むクーディンス博士にこのお墓参りの報告をしました。彼こそ私をストロークの生地、ダウガフピルスに連れて行ってくださった方です。
アウセイの末弟、オスカー・ストロークの研究者であり、大部の評伝も執筆されています。オスカーはラトビアでは知らぬ人がいないタンゴ王で、お墓も花束が絶えないほどの人気があります。
兄のアウセイはその功績に比して、今ではほとんど忘れられた存在です。
寂しい根岸の外国人墓地に眠るアウセイを思いつつ。