ようこそ井口淳子研究室へ(NEW)

民族音楽学、音楽学研究者。近刊は「送別の餃子:中国都市と農村肖像画」jiguchi@daion.ac.jp

帝国劇場の支配人、山本久三郎コレクション

ある膨大な資料があったとして、それをご遺族が大学に寄贈しても、整理する人員がいないとそのまま死蔵されます。

慶應大学はその点、非常に恵まれていて、寄贈資料を専門的な知識を持つスタッフが実に丁寧に整理されています。

 

たまたま自分自身の研究テーマであるストロークという興行主についてあれこれ考えあぐねていた時に、まさか引っかからないよね、とGoogle検索をかけたところ、帝国劇場とストロークの組み合わせで、慶應大学の山本久三郎(きゅうさぶろう)コレクションを発見したのです。

 

ウェブ上にすばらしく細かい資料リストが公開されていますが、現時点ではその存在に気づいている研究者はほとんどおられないとのこと。

 

洋楽受容研究者や演劇学関係者にとって垂涎の資料だと確信します。

 

帝国劇場はまさに帝国の威信をかけた劇場でしたが、ハコは立派でも中身が問題です。それまで歌舞伎など伝統芸術の殿堂だった劇場を西洋芸術の殿堂にしたのが山本翁だったのです。

 

彼は1913年、14年に世界の主要劇場を視察する旅に出ます。おそらく経費は渋沢栄一あたりが出した?モスクワ、ペテルブルク、パリ、ロンドン、ミラノ、NY、シカゴとその旅路の中で自分がみた劇場のパンフレット、鉄道の切符、食堂のレシートまできっちりとっていたのです。そして日記も公開されています。何年何月何日にどこで何を見て、何を食べたか、これはすごい資料だと思います。なにせ革命前のロシア、第一次大戦直前の欧州ですから。

 

プログラムは絢爛豪華、デザインの美しさにうっとり。

 

多くの研究者がこの山本コレクションを利用されることを願ってやみません。

 

ちなみにアウセイ・ストロークのウェブサイトはこちらです。

(日英二ヶ国語でトップページなどを作成、海外の遺族から連絡が入ることも)。

https://ongakugaku2.wixsite.com/strok

 

 

諭吉翁

 

 

1946 年<白鳥の湖>全幕初演のピアノ譜

いやはや、戦後も80年が経とうとしている今、ようやく上海バレエ・リュスの貴重な写真が、それも膨大な量が目の前に!

昨日(四月二十七日)、故小牧正英さんのご自宅に伺うことができました。

小牧正英とは、ハルビンでバレエを始め、上海に移り、上海バレエ・リュス(1934〜1945)というディアギレフ・バレエ・リュスの後継団体に所属し活躍したダンサーです。

日本敗戦後に帰国、帰国直後の1946年に<白鳥の湖>全幕日本初演が帝国劇場でロングラン公演となり、その振付を行なった「戦後日本バレエ界のリーダー」の一人です。

白鳥の湖のピアノ譜を小牧さんが持ち帰ったことで、この全幕初演が実現したわけです。

ご自宅にはリビングにデンと大きくて頑丈なトランクが。

小牧氏が大きなトランクに詰めて持ち帰った荷物の中には大量の写真、プログラム、そして<白鳥の湖>のピアノ版楽譜(P JURGENSON Editeur de Musique)が!ロシアのユルゲンソン音楽出版社のものです。楽譜にはShanghai Philharmonic Society No462のスタンプが押されています。当時はバレエ団を上海音楽協会が接収していましたから、そのスタンプですね。

このピアノ譜を元にオーケストラ版編曲がなされて、あの1946年夏、焼け跡の奇跡と言われる「白鳥の湖」全幕初演が実現しました。
楽譜はボロボロでテープで貼り付けてありますが、バレエのための赤鉛筆での書き込みがとても生々しい。

この貴重な資料群を今後、個人所蔵ではなく、誰もが利用できる公的資料にするために私もお手伝いしたいと思っています。


昨日は早朝から夜の研究仲間との飲み会までフル稼働したので、乗り物では絶対に眠らない私が帰りの新幹線で爆睡してしまいました!

 

小牧家所蔵のピアノ譜<白鳥の湖> (菊池マリーナ氏公開画像)

 

上海から持ち帰ったトランク。トランクだけでもすごい重量感

戦前と変わってないやん!

今週は絶不調に陥り、胃痛のため休講してしまいました。

4月のスタート時に学生の皆さんには申し訳ないです。

 

胃痛でも朝ドラを見てるんかい!と言われそうですが、NHK「虎に翼」もう目が離せませんね。

時代は1930年代、女性には参政権をはじめてとしてなんらの権利もなかった時代、弁護士になれるかどうかもわからない中、法学部で学ぶ女子たち。

 

でも、観ていて、ものすごく脱力感を感じるのです。

今は2024年、100年近くたっているのに、いまだに私たちには様々な不可解な法律の壁があるのです。

代表格が「夫婦別姓」が認められていないこと。

結婚すると夫婦どちらかの姓を名乗りますが、一般的には夫の姓になります。

私は29歳で結婚し、夫の姓になったのですが、すでに研究活動を始めていたので通称という形で井口を名乗り続けています。

しかし、銀行口座もパスポートもマイナンバーも全ての重要書類は普段使っていない夫の姓なのです。

これまでで、一番まいったのが、学会の支部長口座を開くときでした。大手銀行は全てNo、本姓の口座しか受け付けないの一点張りでした。最終的に地方信用金庫がどうにか通称での口座開設を認めてくれました。

次に怖かったのがパスポートの姓名と招聘状の姓名が違うということで海外で揉めたこと。ホテルでも揉めたし、図書館でも。下手すると入館できない事態もありえました。はるばる海外渡航して目的の図書館に入館できない!?

 

究極の話として、私が今、突然死したとして、亡くなった人物が名乗っている姓名の口座はこの世に存在しません。

一生、汗水流して働いて築いたささやかな預金すら自分の名前で所有できないのです!

だったらペイパー離婚して別姓にすれば?と思われるでしょう。

それはそれで数多くのハードルが待ち受けています。家族の緊急手術や公的手続きetc.

 

ちなみに、私が通称を使い、周囲の人が井口さんと呼んでいても、子どもたちも夫もなんら違和感を持っていません。むしろ本姓の方に「それ誰?」って反応です。ですから家族の一体感と夫婦別姓は関係ありません。

 

100年経っても、夫婦別姓すら実現できない。

100年前なら、どんな理不尽なことが起きても不思議ではないです。

 

戦前戦後に多くの先人が女性第一号として奮闘したその先に今がある。しかし、それにしてはあまりにあまりです。

こんな状況が続くなら非婚と少子化は当然でしょう。

細々した支援金を支給するより、根幹の問題に目を向けていただきたい。

 

漢代の画像石 虎に翼がありますね。

漢代 画像石 陝西省

 

 

柳沢英輔さんの講演@みんぱく

今日は花見ではなく、万博公園へ。人山人海(レンシャンレンハイ)、もう人人人。そこを抜けると閑散とした国立民族学博物館
 
柳沢英輔さんの講演を聴かせていただきました。ちなみに柳沢さんの単著第一号は私の「送別の餃子」と同じ灯光舎から刊行されています。版元を同じくする本の姉弟関係!
この日は一般向けの会とはいえ、内容ぎっしり、今年3月の調査の記録CD-Rもちゃっかり購入しました。
 
ハッとしたのは、録音作業をする限り当然のことですが、ご自身はヘッドフォン越しに現地のゴングの音を聴いておられるということ。そしてヘッドフォンの外の音と二種類を同時に聴取しているが、それがとても好きだとおっしゃったことです。
 
昨今の芸能や音楽の民族誌は映像も音もQRコードで手軽に視聴できるのですが、だからこそ豊かなテキストでインパクトが強い映像、音響を丁寧に説明する必要がありますね。
 柳沢さんはすでに映像と音響の記録と並行して、ゴングの製作や調律については名人に弟子入りして調律の技法をマスターされつつあるので今後のお仕事がとても楽しみです。
 
(会場でばったり旧知の方に。今は千里文化財団のスタッフで「送別の餃子」が売れています!とお世辞をおっしゃったので、階下のミュージアムショップに確認しに行くと、<食の本のコーナー>に置いてありました(泣))
 

最新のCDです。

王金旋さんが撮影してくださいました。彼女と会うと、自分の中国語がいかにサビついているかに愕然とします。もう何年、中国に行っていないのか。

100分de名著 フロイト「夢判断」

「100分de名著」は大好きな番組ですが、今回、立木(ついき)康介先生が出演されることを、テキストをお送りいただき初めて知りました。

立木先生との接点は意外なことに「上海」なのです。

関西日仏学館の歴史を調べておられる立木班と私たちの上海フランス租界班が共通のキーパーソン、シャルル・グロボワを通じて結びついたのです。

グロボワは戦後、関西日仏学館の館長を務めていましたが、その前は30余年、上海で音楽評論の執筆を通じて楽壇を牽引していました。教育総監でもあり、自由フランス運動家でもある多面的で複雑な人物です。

さて、フロイトの夢判断の番組テキストはわずか113ページですが、凝縮された文章、それでいて流れがよく、インパクトがある名言があちこちに散りばめられています。読み始めると止まらなくなり、一晩で読了しました。

特に、最後の3ページは圧巻で、フロイトを「夜の、冥界の思考者である」と締めくくられています。人間の真の願望は夢の中に表出する、それを分析することができれば、夢は未来に繋がる‥‥。

この結びの言葉に長年、ラカンを研究し、自らもフロイト精神分析の系譜に立たれている著者ならではの深い洞察を感じました。

当然、フロイトの「夢判断」を早速、注文しました。

 

 

 

四月二日、私的活動(ビール飲んだだけ)

昨日は新学期の諸々の公的活動が始動する1日でした。

諸々公的部分ははしょって、私的活動(いや、ビール飲んだだけ)の方をメモっておきます。

 

午後、仕事を終えて正門を出る。そこでいつもの守衛さん、お名前がサクラさんに出会う。「サクラさーん、桜の下で一緒にお写真撮ってください〜」とお願いしてパシャり。

そこに居合わせた同僚ともツーショット。

同僚と阪急電車に乗って帰路につくも、何やら話したりない気分が一致して、グランフロントへ。

まずはビール専門店でドイツとチェコのビアを数杯。ミュンヘンヴァイスビアがよかったかな。チェコビアは軽いタイプで、癖の強いビアが少ない印象。

私は飲むときはあまり食べないのですが、同僚は次々と揚げ物類を注文。90分の時間制限ギリギリまでひたすらビールを飲む。

お会計を済まし(もちろん、女子会は割り勘が必定、奢る奢られるはおっさん文化ですよね)、さあ帰ろうかとJR大阪駅に向かう。しかしなぜかエレベーターで屋上へ。

グランフロントの屋上のベンチでしばし梅田の街を眺める。そこにたむろするアベックを尻目に会話内容は仕事の話ばかり。飲んでも話が下世話にならないのは女性の特徴?それとも私たちの年齢のせい?

暮れなずむ空とビルに点灯する明かりを見ながら、さあ、帰りますか、と腰をあげる。

と、目の前にルクア、地下にはレストラン街、もう一杯いきますか、と台湾小吃のお店へGO。

点心を食べながらまたもや台湾ビールを数杯。

それでも二人とも素面同様、話題はあくまでも音楽のはなし。

人の悪口を言わないのも飲む時のルール、希少な機会ですから、楽しくないと意味がない。ということで新学期初日は後半、ビール祭りでした。

 

サクラさんと。桜の下でサクラさんと写真を撮るという願いがかないました

 

 

 

 

 

 

この2ヶ月、長かった

1月末に大怪我をして手術と入院に至った我が息子。

その後、在宅療養とリハビリを経て、再度の手術も終え、今日、3月27日に職場復帰しました。

この2ヶ月、本人の辛さは想像に余りあるのですが、家族も試練の日々でした。

朝、昼、夕と三度の食事を作り、歩けない本人の前まで運ぶ、いつもやっている家事に一手間増えるだけなのに、これが重くのしかかる。

彼の在宅ワークが始まると、それはそれで自宅がオフィスのような雰囲気に。

2月下旬は勤務校で毎晩のように演奏会審査があったので、バスもない夜遅く、タクシーで帰るともうそのまままともに食事も取らずにベッドに倒れ込んでいました。

要するに一人の病人によって生活のサイクルというか余裕の部分がなくなってカリカリ、キリキリしていました。

ついつい家族に対してキツイ口調になり、私は継母か?と自分で鬼母のようだと自己嫌悪に陥るほどの精神状態に追い込まれてしまいました。

そんな長く厳しい冬が終わると同時に、我が子の職場復帰が実現したのです。

そこで、今度は単身赴任中の家人の元へ。家人とゆっくり話し合わなければならないことが山積しているのですが、ひとまず、リフレッシュのために今日は一人で近くの登別へ出かけました。なにせ今日は雲ひとつない快晴!

電車で10分ほど、海沿いに「あの世への入り口=アフンルパロ」遺跡があるのです。

かつてアイヌ集落があった一帯には神々しい岩山や波間に奇岩が。太平洋の波の音を聴いているとこの間のモヤモヤした思いが解けていくようでした。

 

アフンルパロ

ポロト湖の向こうに樽前山