たいへん、たいへん、お疲れ様でした。
6月30日、月曜日。この日は私たち家族にとっては特別な一日でした。
というのも、家人が現職を退任したからです。
2016年、準備室時代から新博物館開設にかけて単身赴任の10年間、本人にとっても家族にとっても長かった。
愚痴は言わないけれど、どれだけ逆風や四面楚歌や孤軍奮闘が続いたか、同僚のみなさんが十分にわかってくださっているはず。
北海道、それも後半は胆振郡白老町という小さな町での独居生活、長くて寒い冬や不便なことも山ほどあったと思うけれど、そういう泣き言は一切なし。
聞かされるのはよいこと、楽しいことだけ。
送ってくるのは美しいポロト湖の写真、四季折々の湖面の写真は日記のように貯まっていきました。
冬の水墨画のような湖、夏の夕暮れ、秋の黄金の輝き。
何もないゼロの状態から組織を立ち上げ、安定飛行にまでもっていく、そのような仕事の大変さはおそらくやった当人にしかわからない。
バトンを託された二代目の館長がアイヌ民族であることも、実は初代館長になった時に「館長はアイヌ民族であるべき」とインタビューで答えていました。まさにそれが現実になった、めでたい。
とても見事な10年間だったと家族くらいは褒めてあげてよいのではないか。
たいへん、たいへん、お疲れ様でした。
日経新聞6月7日朝刊「上海、対岸のヨーロッパ」記事掲載されました!
毎週土曜日は新聞各紙の書評欄をチェックしています。
昨日もいつも通り、デジタル版をチェックしたところ、5月下旬に取材を受けた日経新聞「あとがきのあと」に記事が掲載されているのを発見!
事前にとくに掲載日の連絡もなかったので、「ええっ!今日、掲載されたんだ」と驚きました。
そして、読んでみるととても的確に拙著を理解し、言いたいことを全て伝えてくださった見事な記事でした。日経の文芸欄の実力をひしひしと感じました。
記者の増田有莉さんはおそらく音楽が守備範囲ではなく、それでもこの本を選んでくださったことにまずは心より感謝です。
確かにこの本は音楽学の書籍には間違いないのですが、むしろ二人の主要人物を掘り下げ、掘り下げ、その先に見えてくる国境をこえた「グローバル・ヒストリー」という壮大なヒ・ストーリーが主題です。
ですから音楽に関心がない読者にも届くようにと一般書の枠組みに入れられています。
一般書ということで、ページ数に厳格な上限が設けられ、索引も作っていません。多くの画像が厳しい取捨選択の中で消えていきました。
感想として聞こえてくるのが、「随筆のようで読みやすい」、「人物を描くのがやっぱり得意(好き)ですね」、「引き込まれて一気に読めます」といった声です。
ちょうど、同日の朝日新聞に高媛さんの「帝国と観光—「満洲」ツーリズムの近代」についてのすばらしい書評が掲載されていましたが、こちらは同じ岩波書店ですが、専門書枠で、博論をベースに文章スタイルも構成も学術論文のスタイルです。
上海と満洲、この対岸の外地から日本を見つめ直す、そういった作業が戦後80年の今、大きな意味を持つと確信します。
取材裏話としては、写真は携帯電話で撮影したものでOKとのことで、えっ!?そんな簡単な写真でよいの?と驚いたことでしょうか。新聞社によってはカメラマンが撮影した著者紹介コーナーがありますが、日経は写真にはこだわっておられないようで、過去のこのコーナーの記事も、普段の自分といった飾らない写真が多いのです。私もとある日曜日に隣家の庭を借景してパシャっと娘に撮ってもらいました。
森永泰弘さんをお迎えして
5月20日、映像音響作家の森永泰弘さんが来校されました。文化人類学的なリサーチに基づいた作品制作の最前線に立つクリエイターです。
森永さんのお名前を知ったのはおそらく石川直樹さん(写真家)とのコラボレーションかと思います。石川直樹さんの写真展で森永さんのフィールドレコーディングの音がスピーカーから流れていたのです。すばらしい!と直感的にお名前を記憶しました。
その前後、北海道、白老や飛生(とびう)でも森永さんの足跡を目にすることがありました。
けれどもお目にかかる機会がないまま、森永さんは日本を離れ、ポルトガルに移住されたのです。
なぜ、移住?
ポルトガルの宣教師が16世紀に日本に渡り布教した、その史実をもとに長崎に伝承される「オラショ」に基づく作品を制作するための移住だったそうです。
また、最新のアマゾンの先住民族を取り上げた作品制作の過程で、ポルトガル人が大航海時代の自国の植民地支配を反省し、Voyage(航海)やSavage(野蛮)という言葉を厳しく制限規制していることに気づかれたとの話題も。
ポルトガルではフランスなどとはかなり異なる強い反省が行き渡っている状況をうかがえたことは大きな収穫でした。欧米列強がアジア、アフリカ、北南米を支配したこと、しかし今、支配国側でその「黒歴史」とでも言うべき過去の記憶への姿勢が一枚岩ではないことをうかがわせています。
上海でもフランス租界の「アリアンス・フランセーズ」や仏語教育、フランス学校について、宗主国による恥ずべき歴史と捉えることも可能です。
拙著「上海、対岸のヨーロッパ」ではそういった見方に対して、教育総監のシャルル・グロボワを一例として、そうではなく、百年の租界の歴史の中で次第に上海は「中国人と西欧人」の文化融合の場となっていったことを主張しました。
森永さんの作品紹介とその解説から、グローバルな人の移動、植民地支配、人類学とアートの協働といったトピックスについて非常に刺激を受けました。
その上、将来的には上海も彼の制作舞台になる可能性があるとおっしゃったのです!
コロナ前に磯崎新氏(上海では上海交響楽団ホールや巨大商業施設を設計)のプロジェクトに参加され頻繁に上海を訪問されたとのこと、ぜひとも上海をテーマにした森永作品の誕生を期待したいと思います。
それにしても、私よりもはるか年下にもかかわらず、すでに大家の佇まいを見せつつも時折、お茶目な森永さん、多くのアーティストとの協働もその魅力的なお人柄によるものと感じました。
長崎で被爆したドレスデン製のピアノが旧片岡家に到着
2025年5月1日、おそらく百年ほど前にドレスデンのRosenkranz社で製造されたアップライトピアノが長い長い旅路を経て、姫路市網干の旧片岡家(築320年の大庄屋)に到着しました。このピアノが所有者のEさんから寄贈される経緯は、Eさんの同僚である私の娘がEさんから「とても歴史のあるピアノが自宅の売却にともない行き場を失っている。どなたか受け取っていただけないか」と相談されたことがきっかけでした。
そしてピアノを拝見させていただき2ヶ月が過ぎ、この度、正式に移譲手続きがなされ、運搬が完了しました。
このピアノの長い旅路は、今わかっているのは後半部分です。前半部分はドレスデンで製造され、おそらくペテルブルクに売られ、そこで購入したロシア人が革命により亡命者となり、香港へ、香港で売りに出されたピアノをEさんの母方の祖父Tさん(明治24年生まれ)が買い求められました。
1937年、長崎大学医学部教授のTさんはベルリン留学を終え、帰路につきました。行きはシベリア鉄道、帰りは航路だったそうです。船が香港に到着し、Tさんは一台のピアノと出会います。亡命ロシア人が売りに出していたそのピアノを購入し、長崎に持ち帰りました。三女の末娘(大正15年生まれ)がEさんのお母様です。末娘はピアノを練習し、鳴滝のご自宅には日々、ピアノの音色が響くようになりました。しかし、戦争が始まり、1945年8月9日、長崎に原子爆弾が投下されます。長崎大学医学部は壊滅状態、建物も人もこの世から一瞬で消え去りました。T教授はその時、大学ではなく鳴滝の自宅にいたため、ピアノとともに被爆したものの、命は助かったのですが、その後まもなく亡くなられます。ピカッと光ったと思ったら窓ガラスが割れた、という状況だったそうです。
Eさんのお母様はその後、成人、結婚しピアノを教えながら最終的には大阪で長く暮らしておられました。自宅にはこのピアノとスタインウェイのグランドピアノを並べておられたそうです。
お母様が亡くなられ、そのご自宅を処分しようという時に、このピアノは廃棄するのではなく、どこかに移譲できないだろうか、と考えられたのは当然のことです。
ピアノがたどった100年の歴史はまさに世界史の縮図です。ドレスデンもペテルブルクも第二次世界大戦で街は瓦礫と化しましたし、香港も戦火に見舞われました。長崎ではほんの数キロ先が爆心地です。ピアノが見てきた風景を想像すると20世紀の惨憺たる戦争の風景が浮かびます。それでも生き延びてきた亡命者や被爆者の傍にあったピアノ、今なお柔らかな音を響かせるピアノは20世紀の歴史の雄弁な目撃者なのです。
一年後には旧片岡家の改修が完了し、ピアノのお披露目会が開かれるとききます。
ドレスデンから始まった旅路は網干という瀬戸内海沿いの小さな町が終点になりそうです。
(長崎大学医学部のT教授についてはhttps://www.genken.nagasaki-u.ac.jp/abcenter/tsuioku/data/10.pdfに医学部教員としての略歴が掲載されています)
「本のはなし」トークイベント、満席御礼!
実は人前で話すのは大の苦手で、昨日は出かけるまでぐずぐずお布団に潜り込んでいました。

「上海、対岸のヨーロッパ」3名による書評会(4月20日)
あっという間に、書評会から10日が過ぎてしまいました。
4月20日、中国ジェンダー研究会にて拙著「上海、対岸のヨーロッパ—租界と日本をつなぐ芸術家群像」(岩波書店)の書評会が開催されました。正確に言うならば、前半が書評会で後半が松本俊樹さんの研究発表でした。
以下、井口による極主観的なリポートです。
まず、冒頭で私自身が自著について語りました。この書に14年間の全研究精力を傾けたこと、興行主ストロークと評論家グロボワを追って、ラトビア、ペテルブルク、パリ、ブールジュ、上海各地を調査し、日々、外国語新聞と格闘したことを話しつつ、その仕事と並行して灯光舎からの2冊の本の刊行があったことを手短にお話ししました。
続き、菅原慶乃さん(関西大学)が周到かつ丁寧に準備されたパワーポイントにそって、国境を超えた「グローバル・ヒストリー」の可能性を備えた書物と評してくださいました。ストロークの航路と港湾都市を巡るアジアツアーは、一国単位の歴史研究では把握しきれないものです。資料が多言語に及ぶハードルの高さとともに、「人物に迫る」その視点は灯光舎の2冊、すなわち「送別の餃子」と「ファンキー中国」に通底するものだと評してくださいました。確かに学術的な上海本と灯光舎のエッセイ本とでは中身も読者層も大きく違っていそうではあるけれど、人に魅せられ、とことん人に迫る、その特徴は3冊に共通しています。
二人目の評者、星野幸代さん(名古屋大学)はご専門のバレエとダンスに焦点をあて、小牧正英をはじめとする拙著に登場するダンサー達について興味深いご指摘をされました。グロボワが戦時末期に絶賛した「ペトルーシュカ」についてはその舞台映像も交えつつ、グロボワが絶賛した文言をどう解釈すべきか、小牧は本当に踊れていたのか、という真(深)相にまで言及されました。
最後の評者は長年、私の研究上の同志であり続けてくださった趙怡さん(関西学院大学)。「真の上海とは」と題されたパワーポイントそれ自体がもはや一冊の書籍くらいの重量感がありました。上海とは魔都でもなく、東洋のパリでもなく、かといって中国人の楽都とも言えない、その複雑な多面体都市をどう捉えればよいのか、今、残されている課題とは?とすこぶる重いコメントを残されました。
趙怡さんのように中国人として上海をみる際に、当然のことながら、われわれとは異なる視点があります。西洋の植民地支配と言っても、その西洋文化を享受し、近代化を推し進めた当事者=中国人はある意味、植民地支配をうまく利用したという側面もあります。かつて、われわれの共同科研の成果を問うた「上海フランス租界への招待」(勉誠社)に対し、ある書評が発表された際に、その書評に趙怡さんは反論されました。その際、評者があまりに型にはまった植民地支配や帝国主義、ポストコロニアル論に寄りかかって、実態を見ていないのではないかというのが反論の趣旨だったと記憶しています。
上海は植民地都市でも魔都でもなく、自立した中国人が自ら文化を享受し、新たなモダニズム文化、「海派文化」を精力的に生み出した都市でした(残念なことにその後の社会主義国時代に文化活動は停滞を余儀なくされましたが)。
その上海人による文化的営みが、先行する魔都イメージや虹口(ホンキュー)居留民視点が主流だったこれまでの上海史研究から、実態に即した実証的上海史研究に歩を進める時期がようやく到来した、と感じることができた書評会でした。
三人の評者のみなさんとその後の懇親会をご一緒することがかなわず、私は一人、賑やかな懇親会場を抜けて帰宅しました。胃腸にくる風邪で体調を崩していたのですが、ようやく回復しました。
その間に、この中国ジェンダー研究会に出席した何人かの人から「実によい会だった、刺激を受けた、まるでシンポジウム並みの重量感」と感想をいただき、評者のお三方への感謝の気持ちを新たにしています。精進せねば!
懇親会(私は参加できず、残念!)の様子