「夕空の鶴」の刊行情報を知らせてくださったのは高田馬場のチャイカも経営されている麻田さんでした。
数年前にチャイカに出向き、ニキータ山下のディナーライブに出席したので、一斉メールでお知らせが届いたのです。
とりあえず、読み始めると、ぐいぐい引き込まれ、本のタイトルから想像していた回顧談とは違い、まさに歴史的証言のオンパレードでした。(美術商の月光荘のくだりは中村紘子が存命なら書けなかったでしょう、畑中良輔も然り)
ニキータ山下はロシア、中国のハーフであった母と日本人の父の間に1937年、ハルビンで生まれました。戦時下のハルビン、ロシア系の人々は日本軍の侵攻によって世界各地へ再び流浪の旅へ。
ニキータの叔父さんは上海でジャズバンドに参加し、戦後はソビエトに戻りますが、その苦難の人生とは。
ニキータ自身も日本語が覚束ないまま「混じり」として日本で生きることになります。音楽の才能はロイヤルナイツという男声コーラスグループで発揮され、ペテルブルク仕込みの美しいロシア語はNHKロシア語講座で全国に知られるようになります。
彼が要人の通訳に大活躍し、その歌声がソビエトで熱狂的に支持され、いわば、日露文化交流のキーパーソンであってにもかかわらず、その人生は苦渋に満ちていたと想像します。
この書に触発され、早速、成文社の白系ロシア人関連書を読み始めました。
しかし、驚くべきことに、大小様々な活動をした在日ロシア人のリストの中にストロークの名前はありません。
彼は帝政ロシアに組み込まれていたラトヴィアで生まれ、ペテルブルクの劇場を経て、上海で音楽マネージャーとして活躍、50回を超える、世界的アーティストのアジアツアーは、アジアの地に、初めてレコードではなくライブでヴィルトゥオーソの演奏やオペラを届けた人物です。
出自の分かりにくさと興行主という大きな仕事の価値づけがなされていないために、未だに不正確な情報が引用される状態が続いています。
関心がおありの方は是非、ストロークのウェブサイトをご覧ください。
ニキータ山下とストロークの共通点は両者ともに大きな文化功労の達成に対して、なんら褒賞を受けていない点です。
真の文化功労者は在野にあり、ですね。