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民族音楽学、音楽学研究者。近刊は「送別の餃子:中国都市と農村肖像画」jiguchi@daion.ac.jp

久々の対面の日本音楽学会例会

本当に何年ぶりでしょう。対面だけの学会例会に参加しました。

JR京都駅からバスで10分、智積院の脇道をのぼると京都女子大学。到着すると予想外にたくさんの参加者が。

レポートをしたためました。支部通信に公開されるものはまた、別の文章になっているかと思いますがホットな感想です。

 

日本音楽学会西日本支部例会 レポート

 

2022年12月4日(日) 14時〜16時半

 

〈ラウンドテーブル〉

「大戦期欧米の音楽への新たなまなざし:文化・社会史としての音楽研究の可能性」

登壇者: 大田美佐子(神戸大学)、田崎直美(京都女子大学

コメンテーター・ファシリテーター:椎名亮輔(同志社女子大学)、渡辺裕(東京大学名誉教授)

 

 晩秋の京都で久々に対面のみの例会が開催された。全面ガラスの明るい京都女子大学の会場には予想以上に若手や大学院生が多く、例会というよりもシンポジウムといった雰囲気であった。

 今回の企画は、今年、大著を刊行されたお二人、田崎直美氏と大田美佐子氏のお二人に登壇いただき、自著を語るとともに、両氏へのコメンテーターとして椎名亮輔氏と渡辺裕氏にそれぞれご発言いただくという内容であった。

 まず、田崎氏は著書『抵抗と適応のポリトナリテ — ナチス占領下のフランス音楽』で試みたこと、として「歴史学音楽学の『協働』」というキーワードをもとに、ケーススタディとして細やかに書著の中でとりあげた事象をあらためて解説された。

 ここでいう「協働」とは、田崎氏の中に内在する二つの側面、「歴史学的対象と研究方法」と「音楽学的対象と研究方法」である。

 たとえば、ヴィシー政権下のフランスでは音楽家の失業問題があり、それにたいする政策がいかに実行されたのか、パリ市公文館や失業対策庁責任者の伝記やフランス国立公文書館での史料の発見など、歴史学者が取り組むかのような緻密で粘り強い史料調査が展開される。一方で、対象は音楽家であり、音楽家たちがヴィシー政権下で「適応」、「抵抗」とさまざまな選択をとったこと、それを「あえて大きな物語を作らない」「ミクロな物語の集積」という形をとった点こそが、田崎氏の著書の特徴となっている。

 一方、大田美佐子氏は著書『クルト・ヴァイルの世界』を捉え直すことをテーマに、この書で試みたこととして、「手紙・人・分断・景色・かたち」をキーワードにあげた。まずはクルト・ヴァイルをめぐる「二人のヴァイル」論争の経緯と現在、および研究史が解説された。亡命前のヴァイルと亡命後のヴァイル、この分断されたヴァイル像をひとりのヴァイルとして捉え直すために、5つのキーワードにそって、何を史料(資料)とするのか、その資料をどう捉えるのか、ヴァイル研究が一筋縄ではいかないことが説得力をもって説明された。

印象に残ったキーワードは数多いが、中でも「『景色』と評価」、には大田氏の視野の広さがあらわれていた。たとえば、ヴァイルは世界中で受容されており、それぞれの国、地域の景色の中でヴァイル作品がどう評価され記憶されるのか、自著でも「日本におけるヴァイル受容」をとりあげており、ひとりの作曲家と作品を多様な景色の中に置いてみる、そこには無限の語りの豊かさが潜在していることが伝わってきた。

以上のようなお二人の登壇者の発表の後、まず、椎名亮輔氏によるコメントが述べられた。しかし、実はコメントのみならず、椎名氏自身が取り組んでおられる大戦期の欧米の音楽の3つの事例の簡潔な発表が主な内容であった。戦前、8年ものあいだ失踪したピアニスト、ユール・ギュレール、戦時下のフェデリコ・モンポウ、ピエール・シェフェールの戦争体験とラジオ活動、一次史料や書簡を例示しながら、戦時の音楽家、作曲家の行動を研究するためには、資料を見極める極めて高度な「センサー」のようなものが必要であることが伝わってくるコメントであった。

最後に登壇された渡辺裕氏(登壇者お二人がともに研究上、大きな影響を受けたと述べられた)は「言語論的転回」後の歴史学 — 音楽研究との接続のために」というテーマで、先の二人の登壇者の著書とも絡めながら「歴史学のなにが変化しているのか」について簡潔に紹介。まず、言語論的転回とはヘイドン・ホワイトによる1973年刊行でありながら邦訳は2017年の『メタヒストリー:19世紀ヨーロッパにおける歴史的想像力』を指している。ヘイドン・ホワイトによる転回から半世紀が過ぎた今でも史料、一次資料といったアーカイブ史料を最上位に置き、史料第一主義的な伝統的歴史学の手法が根強く残っている中で、「公文書中心史観」を見直す研究が出現していること、その具体例として社会史、文化史の新たな潮流を示す植民地研究などが紹介された。時間の関係で準備されていた「感性史(Sensory History)研究の系譜」と「歴史記述と映像メディア」について割愛されたのは非常に残念であった。文字資料だけが資料ではなく映像、音などの感性記録も歴史資料であり、近年のこの分野の進展が文献からも伺えた。

フロアからは時間を大幅に超える質問が寄せられた。

大戦期の欧米の音楽について日本語で執筆し、公開する意味を問うものや、歴史学の資料調査の手法をとる音楽学研究について、歴史学にはない音楽学の独自性はどこに求められるのか?といった問いであった。登壇者お二人の著書はきわめてハイレベルな一次資料を扱い、歴史学とも重なる資料群を扱っているだけに、それらを音楽学の成果としてまとめる過程で、ある種の「物語化」というバイアスがかけられる危険はないのだろうか、という意味の質問であった。これに対しては、四名それぞれが、明快に資料調査を尽くすこと、丹念に資料を読み解くこととそれを音楽学の成果としてまとめることに矛盾は起きない、と異口同音に返答された。

テーマが大戦期ということで、目下のロシア・ウクライナの戦争も参加者の脳裏に浮かんだことと思う。戦争が亡命者、避難民を生み出し、人々を苦境に陥れるとともに、ある種の文化交流を促す(渡辺氏)ことも、今後、音楽学における重要テーマとして取り上げられるであろう。

二時間半、緊張が途切れることはなく充実した例会であった。何よりもこれだけ多くの若い世代(非会員も多かった)が来場されたことに、明るい展望を感じるとともに、非会員に例会を広く告知する方法を考える必要があると感じた。

(西日本支部 井口淳子)